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どちらを選んでもいいですよ

のんびりやってます

『君の名は。』感想 「喪失の先の地平―結び―」

この感想は『君の名は。』や他の新海誠監督作品の完全なネタバレになっています。ご注意ください。

 

「いつも何かをなくす予感があると、サユリはそう言った。」

雲のむこう、約束の場所

 

「僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。」

秒速5センチメートル

 

これまでの新海誠の作品は喪失の予感と喪失そのもので溢れていた。

 

「お願い、目覚めてから一瞬だけでもいいの。今の気持ちを消さないでください。ヒロキ君に私は伝えなきゃ。私たちの夢での心のつながりがどんなに特別なものだったか。誰もいない世界で、私がどんなにヒロキ君を求めていて、ヒロキ君がどんなに私を求めていたか。」

「お願い、私が今まで、どんなにヒロキ君の事を好きだったか、それだけを伝える事が出来れば、私は他には何も要りません。どうか一瞬だけでも、この気持ちを……」

雲のむこう、約束の場所

 

しかしどれだけ強く、長く、純粋に願った想いであっても、無残に失われてしまう。

 

「わたし、何かあなたにいわなくちゃ……とても大切な……消えちゃった……」

雲のむこう、約束の場所

 

障害を伴う恋とその中で失われていく情熱を新海誠は手を変え品を変え表現し続けてきた。『君の名は。』はそうした一連のテーマの集大成でありつつ、その先の地平を切り開いた傑作である。

 

映画の冒頭、巨大な彗星が尾を引いて、東京のビル群の夜空にきらめく画面を見た瞬間、私はこの物語の世界に飲み込まれていった。本作においても光に彩られた背景美術が得も言えず美しい。特に冒頭の星と空の映像美だけでも、それだけで映画館にきた甲斐がある。

すぐに場面が一転する。朝、目が覚めると何故か泣いていて、「何かが消えてしまった」という感覚を常に抱いている男女が登場する。この「目が覚める」→「なぜか涙」→「何かが消えてしまった感覚」という構図は今後も重要な場面で繰り返される。実に切ない演出。

するとRADWIMPSの楽曲と共にTVアニメでお馴染みのオープニング映像が流れ始める。まさか劇場公開のアニメでこれをやるとは思わなかった。オープニングの出来は良く、映画への期待がふくらむ。『秒速5センチメートル』でもそうだが、新海監督の手にかかると、音楽に合わせてシーンの断片をつなぎ合わせるだけで、既に1つの物語が成立している。もう新海監督のお家芸といっていい。

すぐに三葉に入れ替わった瀧が、寝起きに自分の胸を揉むシーンに入る。この胸を揉むシーンは作中に何度もあるがコミカルな演出で良い。しかも胸を揉むシーンが入るたびに、揉む意味が全然違ってきているのが上手い*1。こういうユーモアを新海監督が描けるようになったのは驚きだった。「女子高生口噛み酒通信販売」のギャグと言い、今までの新海映画にはこのようなギャグシーンはまったく存在しなかった。かなりポップで軽快な作風に変化している。

また、三葉の田舎の描写がとてもリアリティがあって地方在住者としては共感してしまう。伝統文化や自然の美しさも描かれているが、その裏にある負の面も強調されていた。商業施設が何もなくて、女子高生が憧れるカフェは夢のまた夢*2。三葉のスナックだけが2軒もあるという台詞が生々しい*3。さらに、狭い田舎の濃厚な人間関係の負の部分が陰湿な嫌がらせや町長の娘としてのしがらみとしても表現されている。田舎の描写としては正負の両面を描いていて、非常にバランスが取れている*4

 

入れ替わりの日常がこの映画の中心になるのかと思ったら、そこがかなり省略されていたのは相当意外だった。新海監督曰く、男女入れ替わりそのものは、現代社会だとあまり題材としては面白くはないらしい。男女入れ替わりの設定は、本作では「多くの障害に隔てられた男女の恋」を表現するための道具仕立てでしかない。入れ替わりの日常シーンの多くは、MVのように楽曲を流しながら、断片的なシーンの繋がりだけ表現されていた。時間としては短いが、テンポがよくてセンスの光る編集だった。三葉と瀧は、体が入れ替わった時に身勝手な行動を繰り返し、相手の日常生活に迷惑をかけていく。そのことに対して互いが相手にツッコミを入れていくシーンの連続がおかしくてたまらなかった。

男女の体が入れ替わっているにも関わらず、二人ともすぐに適応してそれぞれの生活を満喫するというのは中々斬新で面白い趣向だと思う。しかも入れ替わった方が三葉も瀧もモテるというのが実に良い。三葉が入った瀧は奥寺先輩と何度もデートを重ね、瀧が入った三葉は男性だけでなく女性からも告白される。憧れの体と環境で、「所詮、他人の体だ」という開き直りの行動が、何かしらの魅力につながっていたのかもしれない。ボーイッシュな少女、ガーリッシュな少年はむしろ現代社会だと魅惑的だと監督は思っているのかも*5

 

瀧が糸守の真実を知ってからは怒涛のごとく物語が動き始める。糸守の災害を現場を見た直後から三葉に関する一切の記録と彼女の名前の記憶を失い、焦燥する瀧。事態を打開するために、宮水神社のご神体までたどり着き、三葉の口噛み酒を飲もうとする。そして彼が口噛み酒を飲んだ途端に三葉の人生の全てが走馬灯となって彼の中へと流れ込む*6。この三葉の人生のダイジェストが色鉛筆で書かれたようなタッチで描かれていて神秘的な雰囲気が出ている。流れるように三葉の誕生から、四葉の誕生、母の死、父との別れ、祖母と妹との三人の暮らしに至るまでが映しだされ、あの運命の祭りの日にたどり着いてしまう。「逃げろ、逃げろ」と瀧の叫びが響き渡り、見ているこちらの感情も高ぶっていく。とにかく盛り上げ方がすごい。

ここで突然、流星が落ちた祭りの日に、瀧は三葉と入れ替わった状態で目覚める。元々この日は三葉が自分の体で一日を過ごした日だ。歴史が塗り替えられたのだ。口噛み酒を飲み、瀧と三葉により強い結びつきの力が働いたのだろうか。

三葉を救うために、糸守住民を救うために、歴史を改変するために、克彦、早耶香を唆し、偽の避難計画を立ち上げるものの、町長の説得に失敗する瀧。町長の説得には三葉の協力が必要だと感じた瀧は自転車で宮水神社のご神体へと駆け上がる。ここの瀧(体は三葉)の走り回る動きの作画が丁寧だ。他のシーンでもそうだが動きの作画はこれまでの新海作品とは比較にならないぐらい躍動感であふれている。やはりジブリ出身の作画班の尽力が大きいのだろう。

そこに祭りの前日に、東京の瀧に会いに行った三葉の回想が入る。三葉は東京の電車内で瀧に会うも、彼の姿は彼女の知っている彼のそれよりももっと若かった。一瞬で二人の時間のズレを理解する三葉。何も言えず別れる間際、彼女は自分の髪に結っている組紐を手渡して叫ぶ。

「私の名前はミツハ!」

ここで瀧が手首に常に付けている紐の正体が明かされる。瀧が三葉を知る以前から二人は組紐を通して結ばれていたのだ。作中で組紐は二人の結びつきの象徴となっている。

また山中を走り続ける瀧(体は三葉)が映し出され、音楽と伴にテンションが盛り上がっていく。ここに限らず脚本や演出による盛り上げ方が上手い。以前の新海作品とは別物。

そして宮水神社ご神体周辺の火口で三葉と瀧は出会おうとする。三葉の体に入った瀧と瀧の体に入った三葉がお互いの声を頼りに火口周辺の縁をぐるぐると回る。そして声と声が重なりあう地点で二人は触れ合おうとするが、姿は見えず、手は虚空を掴む。ここで音楽が止み、二人の姿が見えるようになる。瀧は瀧の体に戻り、三葉は三葉の体に戻り、二人は本当の意味で初めて出会うことが出来た。「黄昏(=誰そ彼)時」が始まったのだ。昼と夜の間、人と人との区別、全ての境界が曖昧になり、夢と現実が交錯する時間、逢魔が時。そんな境界線上の時間にのみ、夢と現実とで分断された二人の男女が出会えたのだろう。そういえば、二人が立っている場所は宮水神社の神域の境界線上、聖と俗とが交わる地点でもある。

こんな運命的な出会いなのに、二人は感傷的になるどころか痴話喧嘩をしているのがたまらなく愛おしい。

瀧「お前の口噛み酒を飲んだ」三葉「気持ち悪い!」

三葉「私のおっぱい揉んだでしょ!」瀧「一回だけだって……」三葉「一回でもダメ!」

(この台詞は記憶を頼りにしており、正確な引用ではないです。ご容赦ください。) 

瀧は三年前にもらった組紐を三葉に返し、忘れないようにお互いの名前を手に書き記そうとする。瀧が三葉の手に文字を記し、三葉が名前を書こうとした瞬間、地面に堕ちるペン。唐突に消える三葉の姿。黄昏時が終わったのだ。あまりに短すぎる逢瀬。彼女の名前を忘れないように瀧は何度も三葉の名前を繰り返す。「ミツハ、ミツハ、ミツハ……」しかしすぐに名前を思い出せなくなる。それどころか、三葉に関する全ての記憶、自分がここにきた理由すらもすべて忘却してしまう*7

一方、三葉は糸守を救うために山を駆け下り、克彦の原付に乗って、街を奔走する。RADWIMPSの楽曲(『スパークル』)が流れ始める。停電により光が徐々に消えていく糸守町が上空から映しだされ、偽の避難放送が街に響き渡る。さらに走る三葉。その最中、彼女は泣いていた。瀧と同様に全ての相手に関する記憶を失っていた。また走る三葉。偽の避難放送は中断され、克彦と三葉は計画の失敗を予感する。町内を奔走した末に、三葉は坂を転げ落ち、ふと手に書かれてあるはずの瀧の名前を見ようとする。そこに書かれてあったのは「すきだ」*8の三文字。青臭い、大人にはとてもできない青臭さだ。だがここまで直球の告白となると、逆にぐっときてしまう。このメッセージに涙した三葉は覚悟を決める。毅然とした態度で父である町長と対峙し、彼を説得することに成功する。瀧の強い想いが、三葉を動かし、町長を動かし、糸守町民を救い、三葉の命を未来へと繋げた。

ここまでの一連のシークエンスはRADWIMPSの楽曲と美しい背景美、街を走り回る三葉の躍動によって彩られ、私たちを惹きつけ、揺さぶっていく。特にクライマックスにおける彗星落下の美しさはこの映画屈指の出来栄え。宇宙から雲を突き抜け、地上に落ちていくスケールの大きい映像に息を呑んでしまう。死をもたらす彗星がここまで美しく描かれるのは、恐らく彗星が生の象徴でもあるからだろう。瀧がご神体内部で三葉の生涯を知った時、彗星が精子に変化する描写があった。また、彗星は三葉と瀧を結びつけたという意味でも生のメタファーになっている。死と再生もこの映画のテーマだ*9

映画は最終章へと移る。舞台は彗星落下から8年が経過した東京。ずっと何かを探し続けている気がするという瀧のモノローグが挿入される。彼には自分が探しているのが何か、誰かなのかもわからない。就職活動も失敗続きで焦燥感に囚われる日々。また昔から糸守の彗星落下の事が気になって調べ続けているが、なぜそんなことをしているのか、本人にもわからない。東京での生活の中で赤い紐を結いた女性(=三葉)と二度すれ違う描写があり、彼女のことを一瞬、意識はするものの、何気なく離れてしまう。

ここで映画はラストを迎え、RADWIMPSの楽曲(『なんでもないや』)が響き始める。RADWIMPSの楽曲が挿入されるのは本作では実に4度目。何度も言うが新海監督は音楽を下に映像を組み立てるのが得意であり、好きなのだろう。これは人によってはしつこいと感じるかもしれない。季節は春。桜が咲き乱れる東京。電車に乗った瀧は、平行して走る隣の電車の窓を通して三葉と出会い、正面から向かい合う。初めてお互いを認識し、強く意識した二人。しかし電車は離れていき、二人はまた別れる。すぐに電車から降りた瀧は、近くの駅の周辺をひたすら探しまわる。美しい路地の風景が移され、あまり時間を置かずに、二人はすぐに坂の階段を挟んで再び出会う*10。坂の上に立つ三葉と下から見上げる瀧。しかしお互いの姿を見つけても、特に何かに気づいた様子はない。坂の上ですれ違う二人。このまま通り過ぎてしまうのか?振り返らずに行くのか?観ていて緊張するシーンだ*11。ある程度歩いて離れた所で、二人とも立ち止まり、振り返る。自分の行動に戸惑いながらも、二人は相手のことがなぜか気になると話しかける。そして同時に尋ねる。

「あなたの名前は?」

画面は暗転し、RADWIMPSの歌が静かに始まる。後はスタッフロールが流れていくだけだ。

私は再会のシーンにはそれほど強い喜びではなく、むしろ静かな安心感を覚えた。それは再生への希望を願うこの作品において、すれ違うという悲観的なラストにはならないという予感がどこかにあったからだろう。単純といえるほどの予定調和な結末だ。しかし単なる安心感だけではなく、強い喪失感も残った。彼ら二人はその後男女としてして結ばれたとしても、入れ替わり体験のことは何も記憶していない。あの夏に入れ替わりのドタバタを通して得た戸惑いと喜びと恋慕、そしてお互いが相手と出会おうと必死に求め合った情熱。それらの全てを知っている者は二人はおろか作品世界内では誰もいない*12。ただ、観客の私たちだけが知る事実になっている。あの夏の思い出の全てが失われてしまった。これはあまりに切ない、やりきれない。静かな喜びと安らぎと喪失感が混ざり合った、何とも言えない余韻を残すエンディングだと思う*13




障害を伴う恋を新海監督はこれまで描いてきたが、本作は今までの作品以上の困難な障害が男女の間を隔てている。まずは地理上の距離の障害だが、新幹線の存在によってこれはさほど問題にはなっていない。瀧も三葉もお互いに住んでいる地域には日帰りで行くことができる。次に肉体入れ替わりに伴う障害がある。恋人の体と入れ替わる事は相手にこの上なく近づいているようで、実際には一番遠ざかっている現象だ。確かに相手の体に入れ替われば、その人のことはあらゆることまで知り尽くすことができる。身体も思うがままに見れ、住んでいる家、部屋の中や家族関係、友人関係についても完全に把握できる*14。また、本作ではスマホの日記を通してお互いの意思疎通もある程度は可能だ。しかし、直に相手と会って会話することができない。一番肝心である相手の心と直接触れ合う事ができないのだ。これほどの断絶が他にあるだろうか?相手との交流の手段が文通だけというのは、まるで平安時代の貴族のようである。どこまでも二人の心は隔てられている。またそれ以上に大きい障害は時間の壁だ。瀧にとって三葉は三年前の人間であると同時に、死者である。時間は巻き戻らない上に、死者も生き返らない。とてつもなく強固な障害だ。それに加え最後に最大級の障害が残っている。記録と記憶の喪失だ。そもそも二人が相手の体に入れ替わる体験は「夢」として本人たちは認識している。入れ替わりの夢から覚めてから時間を経れば経るほど、入れ替わりの中で体験した記憶は希薄になっていく。そんな記憶の希薄化を補うのがスマホの日記であったのだが、瀧が糸守災害地を訪れた直後に日記のデータは全て失われてしまう。それでも記録の喪失も乗り越え、宮水神社聖域で初めての出会いを果たした二人だったが、その直後にお互いの相手に関する記憶をすべて失ってしまう。二人の交流の記録が世界から消え、恋人に関する記憶も全て喪失される。これは恋愛の障害というどころか人間関係の基本的な前提を根底から破壊してしまう現象だ。

これほど障害が盛り沢山の恋愛物は他にあるのだろうか*15?いくらフィクションだとは言え、とりわけ記録と記憶の喪失を乗り越えることができそうには思えない。そもそも記憶自体が無くなってしまえば相手と会おうとする意図すら思いつかない。にも関わらず、二人がこれほどの障害を乗り越え、最終的に再会できた要因とは何だったのか?

これに対しては陳腐な答えしか私は持っていない。瀧が三葉の掌に書いた「すきだ」という文字に象徴される、相手を求める激しい情熱によって、二人の再会は果たされた……そうとしか説明がつかない。二人の相手を強く想い続けた感情の強度が、歴史を塗り替え、三葉を含めた糸守の多くの人命を救い、最終的に二人を結びつけたのだ。強く想えば想う程、どんな困難にも打ち勝てる。確かにこんな理屈はフィクションの中でしか通用しない絵空事なのかもしれない。だがそんな絵空事に私たちの心は揺さぶられた。一体なぜ?

 

記憶は喪失しても記憶を超えた「何か」を通じて三葉と瀧は結ばれた。これはフィクションの中だけの話なのだろうか?ユングの言う集合的無意識のように、この現実を生きる私たちも又、意識に浮かび上がらない「何か」で結ばれているのではないか?記憶に残らない夢のような無意識の領域の「何か」が、認識できないどこかで私たちを動かし、世界を動かしているのではないか?そんな監督のメッセージを私は感じる*16

本作では記録や記憶からは喪失されても伝わっていく物のメタファーとして、宮水神社の儀礼が登場する。火事でお宮の古文書は焼け、古来から伝わる儀礼の意味はわからなくなってしまったが、それでも神社の習慣と神事は脈々と続けられてきた。儀礼の意味を知ることはできなくなったが、それは無意味な行為ではなく何か重要な意味を持つものとして代々伝えられたのであろう。現に作中では口噛み酒の儀礼が三葉と瀧とを結び、糸守の人々を救う重要なファクターになった*17。記録や記憶が全て喪失してもそれで全てが消え失せたり、無意味になったりするわけではないのだ。

では、記憶に残らない「何か」、言い換えれば無意識の領域での繋がりだけで瀧と三葉は再会を果たす事が出来たのだろうか?いや、それだけでは説明がつかない。運命的なつながりだけで再会できるとするならば、瀧と三葉は東京で何度もすれ違うことはなかったはずだ。なぜ最後の出会いでようやく結ばれることができたのだろうか?正直に言ってこの問いに対する適切な答えが私には上手く思いつかない。強いてその理由に答えるとするならば、「ラストシーンの階段で二人が振り返り、思い切って相手に呼びかけて、名前を尋ねたから」という身も蓋もない事実そのものになってしまう。

無意識の領域、夢で誰かと結ばれていても、現実世界でお互いに言葉を通わし、しっかり相手を認識しなければ、街中で出会っていても、気づかず、すれ違うだけになってしまう。なぜかは知らないが心のどこからか湧き上がってくる相手への感情を、明確に自己の中で言葉と結びつける(「あの人の事が気になる」)。そしてその言葉を口に出し、相手へと呼びかけ、お互いのことをはっきり認識しあう。そうすることで、無意識の世界、夢の領域だけではなく、意識の世界、現実の領域においてもお互いを完全に結びつけあうことができる。このような「心の中にある『何か』を言葉にする」、「お互いを呼び合う」という一連の行為を思い切って実行に移せた事が、最終的に瀧と三葉が結ばれた理由なのだろう*18。作中で三葉と瀧が相手の名前を連呼するシーンがあるが、まさに言葉にはならないような想いを、あえて「言葉」として、「名前」として、何度も繰り返し「言葉にする」行為が、相手との結びつきを強固にすることを示している。

本作では人と人との繋がりは糸と糸との結び(作中では「ムスビ」と表記される)に喩えられている。ほつれ、崩れて、ばらばらになっても、時間を遡り、結い直すことで、またいつか結ばれる、それが人と人との繋がりなのだという。夢を通して「好きだ」という情熱の糸で結ばれた瀧と三葉もまた、時間を超え、記憶を超え、すれ違いを繰り返した末に、ようやく無意識から湧き上がる「想い」を意識上の「言葉」で結び付け、そして「君の名前は」というお互いの「呼びかけ」の糸によって、夢の世界でも、現実の世界でも、お互いの心と心が完全に結び合わさったのだ。

 

今ならこの作品がなぜ多くの人の心を揺さぶるのか、その疑問に答えることができる。それは本作が、消えてしまった人々と土地への哀愁と希求という、全ての人が抱く普遍的な感情に訴えかけているからだろう*19。誰もが日常を生きる中で人々との別れを経験し、時間の移ろいの下で親しんできた土地の変化を目の当たりにする。そんな消え去った人々や土地をせめて記憶の中に留めておこうとしても、人の記憶というのはいつまでも鮮明に覚えていることはできない。どれだけはっきりと覚えていた記憶や感情も、長い時間の経過とともに薄れていってしまう。私たちは皆、それゆえに過去のあらゆる人や場所、それらを通して得た経験を愛おしく想う。このことは新海監督が何度も過去作で繰り返したテーマだ。瀧と三葉の二人が結びつくまでの過程を通して本作は、誰もが抱いている消え去ってしまった誰か、何かへの哀愁と希求を代弁し、そしてそれらの事を常に想い、呼びかけ続けていれば、それらがこの世から完全に消え去ることはなく、いつもどこかで私たちとつながっている、と語りかけ、私たちに希望を与えているのだ。だからこそ本作は幅広い層の観客の共感と感動を呼んでいるのだと私は思う。

 

本作の特徴である美化された日常風景や、夢と恋、うつろい失われる物への憧れ、届かぬ、会えぬ人への恋慕といったテーマは、和歌や源氏物語のような日本の古典文学の世界に通じているかもしれない。直接的には『とりかえばや物語』や小野小町の和歌(「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知せば覚めざらましを」)が本作のモチーフになっている。古典を勉強したという新海監督はもしかすると日本の古典文学の影響を受けているのかもしれない。

とは言え、これらの本作のテーマは初期の新海誠監督の映画から通底していたということは忘れてはならない。本作は、新海誠映画の過去の要素を集大成した作品だ。『ほしのこえ』の時間の壁に隔てられた恋人、『雲のむこう、約束の場所』の夢の世界でのみ繋がれている男女*20、『秒速5センチメートル』の距離によって隔てられた恋人たち、『星を追う子ども』の聖地の光景、伝統的民族文化の描写や死者の再生、『言の葉の庭』の古典文学や年齢差によって隔てられた男女。それらが全てモチーフとなって『君の名は。』に結実している。また新海映画の特色である、まばゆい光で美しく彩られた電車や線路、踏切、都会のビル群、夜空、路地といった背景も本作で取り入れられている。シーンによってはかつての作品のセルフオマージュと言ってもいいくらい酷似した描写もあった。本作以前の全ての新海誠作品は本作のための伏線と言っても良いと思っている。過去の作品が全て「結」ばれて本作があるのだろう。

 

さてここからは本作において問題とされる点について述べていく。

まず、ネットでよく言われているように、脚本上、説明不足だと思われる点は確かに多かった。特に入れ替わりの際に時代がずれていることを本人たちが気が付かないのは奇妙だという指摘がある。確かに彗星大接近のニュースを三葉に入れ替わった瀧が気づかないというのは不可解だ。ただそこは二人の認識に歪みが入っているのだと個人的には解釈している。そもそもが夢の中での出来事とされているのだから、認識が歪んでいてもおかしくはない。

また、瀧が糸守の大災害を知らなかったというのは奇妙な話だが、何らかの記憶の改変があったのかもしれない。あるいは瀧だけが(糸守大災害が起こらなかった)異なる世界から突然移動したのかもしれない。正直、この辺のSF上の考察は私の手に負いかねる。

さらに言うと、夏祭りの停電時になぜ、町長が三葉の予言を信じ避難誘導をしたのかもまったく説明されず、多少気にはなった。ただ、町長が宮水一族の入れ替わり体質について知っていたという描写があったので、予言を信じる何らかの知識はあったのかもしれない。だからこの町長の行動もプロットを破綻させるほど不自然なものではないと感じた。

他にも説明されない謎が無数に残る作品だった。しかし、新海監督は観客の感情に訴えかける力技の連発で、理性的な疑問を吹き飛ばしてしまった。恐らく新海監督は、全ての作中の超常現象は何かのメタファーとしてしか捉えてないのだろう。人間の心、主観を描くことに注力して、客観、科学の世界はそれを描くための手段としか見ていないのだと思う。極めて村上春樹的な世界観だ。ちなみに夢の中で大勢の人々の命を救ったというのは、タルコフスキーの『サクリファイス』にも似た構図だ。タルコフスキーも科学的、SF的な説明や整合性はいい加減な人であるが、だからといってその事が作品の評価を損なっていないと思う。私としては人間を描くことに問題がなければ、それ以外の点で脚本に瑕疵があっても構わない。

また男女の恋愛がピュアな関係であるのはこれまでの新海作品とまったく変わっていない。現実の恋愛はもっとエゴイスティックな物で、裏切りや腹の探り合い、性欲と独占欲がうずまくものでもある。『ほしのこえ』から『君の名は。』に至るまで、あまりに純粋で理想化された恋愛ばかり扱っていないか?もっと新海監督の大人の恋愛が見てみたい。本作でも登場した日本古典文学つながりで言うと、『源氏物語』のような「もののあはれ」と「エゴイズム」が両立された「大人」の恋愛に挑戦して欲しい(せめて三角関係の恋愛模様は見てみたい)。それだけの可能性を新海監督は秘めているはずだ。

 

これほどの作品を創りだすまでに新海監督の相当な努力と周囲の協力があったことは容易に予想がつく。新海監督は『星を追う子ども』への批判を受けて、脚本術を一から学び、教養を磨くようになったとインタビューで話している(その成果の一部が『言の葉の庭』に見受けられる)。また、脚本の執筆にはプロデューサーの川村元気氏が大きく関わり、作画には作画監督の安藤雅司氏を初めとするジブリ出身のスタッフが携わっている。ちなみに新海監督は以前は作画面を全て自分でコントロールしていたのだが、本作では自分では作画をコントロールせずに、制作方針の多くを安藤氏に大きく任せたという。それにしても作画スタッフの顔ぶれを見ると、本当に優秀な人材がよく集まったと感心してしまう。すごいぞ今年の東宝は。

 

セルフオマージュといって良い程、過去の新海作品の要素を集大成し、ポップな感覚と観客の喜怒哀楽を揺さぶる巧みなストーリーテリングを加えた上に、喪失の先の価値感―喪失を乗り越える程の人と人との強い結びつき―を描いたことで、青春映画の金字塔が打ちたてられた。2010年代、ひいてはポストセカイ系、ポストジブリ、ポスト3.11*21を代表する作品であることは間違いない。喪失の先に広がる人と人との超越的な「結び」つきを描いた事で、新海監督のクリエイターとしての可能性は限りなく広がった。

ただ見方を変えると、新海監督は本作を生み出すために過去の作品制作によって蓄えてきた貯金を全て使いきったかのようにも見えてしまう。これから先、彼はどこへ行くのだろうか?一ファンとして不安でもあり楽しみでもある。

*1:特に「揉んだらアイツに悪いかな」→「結局揉む」の時の畳み掛けが笑えた

*2:克彦がカフェだと称して自動販売機に連れて行くところが可笑しい。

*3:もうちょっと人口のいる田舎だと、スナックがパチンコ屋に置き換わると思う

*4:極端に美化された田舎の自然や人間を描く細田守とは対照的。

*5:実際に瀧が入ったポニーテールの三葉はかなり可愛いかった。また、瀧も完全に乙女にしか見えなくなっていた。神木隆之介の乙女演技の自然さは尋常じゃない。

*6:この一連のシークエンスは『星をめぐる子供』のオマージュか。

*7:記憶喪失はお涙頂戴物ではよくある手法だけど、やっぱり物悲しい。原田知世の『時をかける少女』のラストもそうであった。

*8:三葉の「名前」の文字は残らず、瀧の「すきだ」の文字が残ったのは象徴的。名前(=記憶)は消えても想い(=記憶を超えた感情)は残るという本作のテーマを示している。

*9:「三葉と瀧が全てのお互いの記憶を失う(=映画の登場人物としての死)→ラストでの再会(=再生)」「彗星落下による糸守住民の死→歴史改変による住民の救済」。

*10:ここで三葉を見つけるまでのタメが短すぎるのがちょっと気になる。ただ、お互いを探し求める描写は映画内で何度も繰り返してきた。これ以上同じような描写を繰り返すとしつこくなると監督が判断したのかも。

*11:ここに至るまでの一連のシークエンスは『秒速5センチメートル』の完全にセルフオマージュ。

*12:三葉と瀧を結び合わせた神様だけが知っている、とするのはちょっとロマンチックすぎるか。

*13:前にも述べたように記憶を失った二人の再会は死と再生のメタファーになっている。一度は死んだ恋人たちが、輪廻転生して再会するような錯覚すら覚えた。死の悲しみと生の喜びが同居したラストシーンとも言えるかもしれない。

*14:完全に個人のプライバシーは筒抜けの状態。入れ替わり相手が悪人だったら地獄だ。

*15:これだけの障害がないと現代社会で男女のすれ違いのシチュエーションは作り出せないのかもしれない。

*16:やはりこの思想は新海監督に影響を与えた村上春樹を思わせる。

*17:宮水神社で代々伝承された神事が災害から人々を救うというのは、三陸の「つなみてんでんこ」などの伝承の影響もあるのかもしれない。過去からの言い伝えが人々を救うという構造が共通している。

*18:ただし、あの階段で瀧と三葉が言葉をかけるきっかけは何だったのか、と聞かれると私は何も答えられない。結局は無意識の「何か」の力のなせる業(わざ)としかいいようがない。

*19:「消え去った人々と土地への哀愁と希求」で連想するのはやはり、東日本大震災だ。糸守の災害の描写を観る限り、明らかにこの映画は津波で消え去った死者と街へのレクイエムにもなっている。

*20:夢から醒めると夢での記憶を失うという構図は本作と共通している

*21:下手をするとアニメ版『時をかける少女』の後継作という意味で、ポスト細田守になるのかもしれない。細田監督にはまだまだがんばってほしいが。

運動会の手つなぎゴールは無かったっ”ぽい”

今日の午後2時頃に放送されたTBSラジオの『たまむすび』で以前から調査が続けられてきたある問題に一応の決着がつけられていました。それは「小中学校の運動会で手つなぎゴールが本当にあったのか」というものです。この件に関するコーナーの録音は、6月20日まで以下のリンク先から誰でも聴くことができます。よろしければ聴いてみてください。ちなみに私は直接本放送を聴いていました。たまむすびの本放送ではBGMがカットされなかったり、他のコーナーも聴けたりするので、ポッドキャストだけではなく直接ラジオやradikoで聴いてみるのもおすすめします。

www.tbsradio.jp

http://podcast.tbsradio.jp/tama954/files/20160613_gum.mp3

番組内では「手つなぎゴール」の存在を紹介する読売新聞、朝日新聞の記事を徹底的に検証し、実際に当事者の教員に取材をして「手つなぎゴール」の有無を確認していきます。また、最も古い「手つなぎゴール」の証言者であるアグネス・チャン氏に直接インタビューまで取っていました。

その調査の結果、運動会での「手つなぎゴール」を直接見たという人に行き着くことは出来ませんでした。教員たちは皆「手つなぎゴール」を見たことがないと証言し、新聞記事の内容に懐疑的な発言を述べます。また、アグネス・チャンのインタビューによって、実は本人が直接手つなぎゴールを見たことがないという事実が明らかにされるのです。結局あらゆる手を尽くして調査しても、「『手つなぎゴール』があると『聞いた』」という伝聞情報しか見つけることは出来なかったのでした。ただし、5月2日の放送では「徒競走のゴール直前で生徒を並ばせる光景を見た」という証言を得ることはできました。しかし、それですら「手つなぎ」の状態でのゴールではなかったということです。番組としては「運動会の手つなぎゴールは無かったっ”ぽい”」と結論づけています。

今回の調査では明らかにされたのは、大手新聞社と言えども、その報道内容の信ぴょう性は鵜呑みにできないということでした。複数の情報源にあたることの重要性や、情報の真偽を冷静に判断する必要性が改めて認識させれました。

また「大手新聞社の記事」というお墨付きによって、真偽が不確かな情報がメディアや著名人の間に拡散していく現象が興味深かったです。6月6日の放送では「手つなぎゴール」に関する著名人の発言や文章の数々を赤江珠緒さんがとんでもない早口で読み上げていました(この時の早口の巧みさはさすがプロだと感心しました)。

ちなみに調査の過程では「手つなぎゴール」の存在は否定されても、それに近いような行為が実際に教育現場で行われていた実態も付随して紹介されていました。「運動会で順位をつけない」「ゴール手前でストップする」「同じ足の速さの人だけで徒競走をする」などです。これもまた調査、検討すべきだというリスナーの投稿もありました。これについての放送作家さんの考えは「この番組はあくまで『手つなぎゴール』の有無に絞って検証をしたい。それ以上の問題を扱うのはSession22のような報道番組の仕事」というものでした。確かに教育やデマ、流言に詳しい評論家の荻上チキさんが扱うべき案件でしょうね。

というわけで面白い放送を聞けて今日は大満足でした。TBSラジオさんはいつもの事ながら良い仕事をしてますよ。

 

エロゲ文化が最後の輝きを放っていた頃を過ごしてみて

以下のシロクマ先生の記事を読んでいたら、私自身の懐かしい記憶が蘇ってきた。

p-shirokuma.hatenadiary.com

私自身も実はエロゲをある程度の数をプレイしており、結構気に入った作品も多い。しかし、こういうプライベートすぎることはあまりネットに公表すべきではないと思い、今まではあまり言及してこなかった。ただ、せっかくシロクマ先生がカミングアウトされたようなので、ついでと言っては申し訳ないが私もエロゲについて書き記してみたい。以下の文章は完全に自己満足のために書いているだけなのかもしれないが、とりあえず記録として残してみる。

 私とエロゲの出会いは何と中学生の頃になる。2005年前後の地方の中学校での出来事だ。私がある日パソコン部に行ってみると、何やら男子連中が集まって騒いでいた。私が近づくとどうやら格闘ゲームをパソコンでやっているようだった。何かと思い詳細を聞いてみたが結局明確な答えは返ってこなかった。

後から知ったことだが、これはエロゲのキャラを登場させた同人ゲームだったようだ(確か月姫だったと思う)。この時はこの経験がエロゲとの初めての接触であることに気づくことはなかった。

その後友人たちの間で奈須きのこの『空の境界』がやりとりされるようになっていった。私も借りてみて上巻を呼んでみたが、まったく文章が受け入れられず途中で挫折してしまった。友人はしきりに読むように勧めていたが、結局最後まで『空の境界』を読むことはできなかった。18禁エロゲの売買は一部の男子間で盛んだったようだが、私は中学生の頃までは、まったくその裏世界の動向を知らずにいた。そもそも私は自室にパソコンを当時は持っていなかったので、そんなものを渡されてもプレイする手段が存在しなかった。その事情を知って友人たちも私にはエロゲを貸したり情報を教えたりしなかったのだろう。

ところが私が高校に入学した2007年頃には状況が一変する。当時、親から安価なノートパソコンを買ってもらい、自室でネットを自由に見ることができるようになっていた。その頃からちょうどニコニコ動画が流行し始め、私も地方在住者でありながらすっかりアニメをはじめとするオタク文化に親しむようになっていった。

そんな流れの中でエロゲについても知るようになると、中学校で裏で流行していた「何か」がエロゲであった、ということに気づくのも時間の問題だった。

中学校でやりとりされていた物の正体を知った時、私はひどく後悔をした。当時エロゲをやり取りしていたクラスメートは私とわりと仲の良い連中であったのだが、エロゲに関しては自分だけ仲間はずれにされていた。「あの時、友人たちと秘密の趣味を共有して、もっと中学校の時に楽しんでおけば良かった。スタンド・バイ・ミーのような濃厚な体験を友人たちと持つことで、より関係性を深めておけばよかった。」そんなことばかりを当時は考えてばかりいた。実は当時は高校デビューに失敗し、友人が一切いない状態であった。そのせいでなおさら中学生時代を懐かしむようになっていたのである。

そこでせめて中学でプレイされていたと思われるゲームを今からでも追体験しようと思い、さっそく街のゲーム屋に向かった。狙うタイトルは『Fate/stay night』だ。これは原作は18禁ゲームではあったが、その時には全年齢版がPS2から販売されており、高校生でも購入は問題なかった。

購入してから自室で3日3晩ひたすらプレイしたと思う。怒涛の勢いだった。ところが感想はイマイチよろしくなかった。単にバトルロワイヤル物として戦闘や生き残り戦略を楽しむことは十分でき、その意味では傑作だった。しかし、文章が荒削りな点と登場人物が大人を含めて幼稚に思えてしまった点がどうも納得出来なかった。それ以降、その時の落胆のせいでエロゲやそれに類するゲームからは距離を置くことになる。それでもネットで見かけるエロゲの名前は常に気にはなっていた。

転機が訪れたのは大学に通うために東京で一人暮らしをするようになった2010年頃だ。この頃になると堂々とエロゲをプレイできる年齢になっており、一人暮らしという環境も気兼ねなくエロゲをするのに最高の条件だった。しかも大学の先輩や友人からエロゲの貸し借りが自由にできるときている。月に1~2作品ペースで作品を消化していった。

今にして気づくことだが、その頃周囲から勧められた名作ゲームや自分が気に入ったゲームは、どれも今流行しているものというよりも2005年前後に発売された古めの物が多かった。『Phantom』『Air』『パルフェ』『クロスチャンネル』『マブラヴオルタネイティヴ』『君が望む永遠』『つよきす』……どれも既に中古市場で安く売買されているものばかりである。もちろん2010年の当時に発売されたものもプレイしてはいたのだが、どうも勢いがない印象は否めなかった。

私がハマった作品群は虚淵玄タカヒロ星空めてお瀬戸口廉也らがライターを務める物が多かった。好きな作品を5本挙げるとすれば『君が望む永遠 』『キラ☆キラ』『さよならを教えて』『Forest』『 腐り姫 』になる。これら以上に革新的な作品はエロゲではもう出ないと思う。

特に『君望』の衝撃は大きかった。かなり古臭いハーレムゲームの基本形をなぞりながら、女性としてリアリティのある速瀬水月というヒロインを軸に、愛することの苦しみをこれほど表現できたゲームを他に知らない。他者との関係において摩擦係数ゼロであることが当たり前となっている現代のラノベアニメとはまったく異なる世界観であろう。私は『君望』を発売からちょうど10年後にプレイしたが、後にも先にもこれほど衝撃的で、感動し、評価できるゲームに出会うことはなかった。速瀬水月というヒロインの造形は見事としか言いようがなく、「女であること」のリアリティを見事にエロゲという制約において成立させている。エロゲにおいて他者としての女性のリアリティを確立できたのは『君望』しかなかったように思う。多くの他のエロゲもプレイしてみたが、大抵の作品におけるヒロインは男性の欲望の鏡像にしかすぎず、嫌悪感を抱くことが多かった。

実は私はエロゲにおいてこの種の「嫌悪感」をヒロインに感じることが非常に多かった。それ故、最初の部分だけプレイしただけで、結局受け付けないエロゲの方が相当数に及んでいた。その結果、『パルフェ』や『マブラブ』、(エロゲではないが)『クラナド』といった世間からの評価が高い作品も最後までプレイせずに終わってしまった。

ところで 2010年前後のエロゲに勢いがないと前に述べたが、ぎりぎり私が10代であった頃に(エロゲではないが)シュタインズゲートの感動を味わえたことは幸運であった。その当時は考察サイトや掲示板が多数存在し、多くの議論が交わされていた。私もプレイ直後の記憶と感激を濃厚に持ったまま、それらのサイトに入り浸っていた。

2010年頃に勢いがまだあったメーカーは『シュタゲ』『装甲悪鬼村正』を出したニトロプラスと『まじこい』を出したみなとそふとだったと思う。両社とも私の好きなメーカーであった。

みなとそふとのゲームに関して述べてみる。このメーカーのヒロインは男性の欲望の単なる映し鏡であるようにみえて、実際にはその傾向に最も反抗している人物造形のキャラクターばかりであると思う。みなとそふと作品はヒロインの主体性、人間性の尊重にかなり気を使っている節があり、その点を一番評価したい。ただ、あまりこの考えに賛同していただけることはないと思うが……

後はライアーソフトが細々としかし堅実に独自路線を貫いていた。2012年発売の『屋上の百合霊さん』は相当インパクトのある作品であった。少女漫画の世界観をゲーム化したこの作風は、ライアーソフト以外は真似できないであろう。

また、他にサーカスという会社の作品が人気だったようだが、私は肌に合わずほとんどプレイしていない。

エロゲが最後にオタク界で影響力を持った作品は2010~2011年発売の『WHITE ALBUM2』だったと思う。これは2chまとめブログで大々的に宣伝され、エロゲ批評サイトで歴代最高点を稼いだことが話題になった。しかし、似たような作風の『君が望む永遠』や『スクールデイズ』ほどオタクへの影響はなかったように感じた。私自身もプレイしたが無駄に中盤が長すぎて、きれいにまとまってある君望には及ばないと思っている。

長々と書いてきたが、私がエロゲを主にプレイした2009年~2012年の頃には他ジャンルへ影響を与えたエロゲはほとんど発売されてなかったと記憶している。数少ない例外を無理やり挙げるとすれば、皮肉なことに18禁ではない『シュタインズゲート』になるのかもしれない。次点で『WHITE ALBUM2』の名前も挙げてもよいかも。

正直、私の観測範囲は狭いのでどんどんご批判をして頂きたいです。そもそも私のアンテナは相当偏っているので、これは当時のエロゲ事情のごくごく一部を見ていただけに過ぎないと自覚しております。どなたか2010年代前半のエロゲ界の動向に詳しい方のご意見が聞きたいです。長文失礼しました。

東京から引っ越して気づいたこと

以下の内容は基本的に私のツイートのまとめです。

私は最近、東京から実家のある秋田の田舎に引っ越すことになり、都市と地方の劇的な環境の違いを実感するようになった。幸いにも(?)私はインドア派のオタクでネット・パソコン依存症気味の人間だったので、あまり移住しても娯楽面では困らなかった。

また大型古書店TSUTAYAが近くにあったことで、オタク関連グッズも特に不自由なく手に入れることができた。むしろ漫画に関してはセットで買うと東京よりも格安で購入することができ、しかも置く場所に困らなくなったので、地方移住後の方が充実した漫画生活を送れている。漫画のレンタルも地方のTSUTAYAのほうが豊富に取り揃えていて、文句のつけようがない。

ただ芸能関係の公演は当然ながら東京の方が質量ともに圧倒しており、私の趣味の落語鑑賞も大きく制限されることになった。それでも私の大ファンである柳家喬太郎師匠が幸運にも毎年秋田県で高座を開かれているとのことなので本当に助かった。わりと落語家さんの地方公演は多いようだ。

そんな生活を送っていると、「ネット時代ではそこまで東京と地方の格差はないのでは」とも一時感じたこともあった。しかしよくよく再考してみるとそう一筋縄に結論付けるわけにはいかないと思うようになった。というのも私が住んでいる場所が県の政治と経済の中心地である秋田市であるからであり、そこからの視点で快適さを判断していたからだ。秋田市(やその周辺の市町村)に住んでいれば、大型書店、県立図書館、大型古書店、CDレンタルショップ、大規模なショッピングモールに容易に行くことができる。有名なアーティストの公演や美術館での特別展示も気軽に観に行ける。

しかし、秋田市から離れた地域だとそのような比較的恵まれた環境を享受することに困難が生じる。秋田県は山間部が多く、面積が広いので秋田市へのアクセスが困難な地域が多く存在する。そういった地域の文化は結局郊外型ショッピングモールだけという貧しい物になってしまう。教育面や就職面でも格差は大きいだろう。こういう環境下においてシロクマ先生が述べているようなソフトヤンキー文化が発展しているのかもしれない。

とりあえずTwitterのまとめということで駄文失礼しました。

男でも少女漫画を読んでみてはどうかな?

この記事を見て久しぶりにブログを書きたい欲求に駆られました。

anond.hatelabo.jp

こういう男性向けオタクカルチャーにおける女性差別の問題については、私も昔から同じようなことを思っていました。男性向けオタクカルチャーって女性や同性愛者に対して、結構差別的な表現や構造がありますよね。それに対して送り手も受け手も無自覚なことが多いから質が悪いです。

私もオタクのひとりとしてその現状に憤りを覚えていました。ただし、その怒りを外にぶつけることよりも、むしろ違う世界に逃避することで解消していました。それが少女漫画の世界です。

少女漫画は社会においてマイノリティである女性の側に立った作品が多く、女性への差別に対しては極めて敏感であり続けてきました。そのため、性別による力関係や差別のない、対等な恋愛を志向した作品がわりと多いです。とりわけ萩尾望都竹宮恵子に代表される24年組の作品はその傾向がとても強いです。そういった世界に耽ることで、私の場合は男性向け作品への鬱憤を解消していました。

別に少女漫画でなくても構いません。一度、増田はこの性差別にあふれた男性向けサブカルチャーの世界を忘れさせてくれる、別の世界に触れてみるといいかもしれません。そうすることで否応なく目に入るネット上の不快な世界の苦しさを、多少なりとも和らげることができればいいのですが。

増田が興味を持ちそうな少女漫画家の一覧を下に並べておきます。見てくれるかはわかりませんが。

萩尾望都竹宮恵子山岸凉子大島弓子吉田秋生川原泉庄司陽子三原順大和和紀那州雪絵小花美穂志村貴子